平野郷・喜連環濠・綿花
万葉集にも紡がれた大阪屈指の歴史を誇る町

伝統と風情あふれる
エリア

平安時代より発展し、大阪屈指の
自治都市へと進化した「平野郷」

平野郷の街並み

平安時代から開けた大阪市内で最も古い町として名を馳せた平野。大阪・奈良を結ぶ交通要衝地として発展した「平野郷」を中心に栄え、江戸期には人口1万人以上の町として堺と並ぶ大規模な自治都市を形成したとされています。江戸期に完成した「碁盤の目の町割り」は今も残り、当時のおもかげを感じられる大阪を代表する歴史情緒溢れる町として、令和の時代にも脚光を浴びています。

平野郷の街並み
杭全神社(自転車9分/約2,230m)

平野の由来は、平安時代に征夷大将軍坂上田村麻呂の子「広野麿」が杭全荘を領地として賜ってこの地に居を構え、そして治めていたことから、「広野」が転訛し「平野」と定着するようになったものと伝えられています。その子、当道が862(貞観4)年に素盞嗚尊を祀る祇園社を創建したのが、現在の杭全神社の第一本殿と「平野郷社縁起」絵巻に記されています。

杭全神社(自転車9分/約2,230m)

毎年7月11日から14日までの4日間にわたり杭全神社で開催される夏祭は、悪疫や天災を鎮めようとする平安時代初期に始まった祇園会(ぎおんえ)が時代の移ろいに合わせるように現在の姿となりました。期間中には九台のだんじりの曳行があり、大阪屈指の大規模だんじり祭りとして毎年30万人を超える人出で賑わうなど、歴史と伝統が脈々と受け継がれています。

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渡来人の定住地として
異国文化も織り成す要衝、喜連環濠

喜連環濠地区(徒歩12分/約950m)

喜連の由来は「万葉集」にも綴られた「伎人郷(くれひとのさと)」とされています。古代以前から渡来人なども行き交う要地として賑わいを創出したこの地は、中世には戦乱の舞台となったことから、防御のための環濠を設けられました。この「喜連環濠地区」は大阪における初期の渡来人の定住地としての歴史も併せ持ち、異国文化も織り成す要衝地として発展を遂げてきました。

喜連環濠地区(徒歩12分/約950m)
妙願寺(徒歩11分/約870m)

また、弥生時代前期末頃の環濠の可能性のある大溝と建物跡の柱穴、炉跡などの遺構などが発見された「瓜破遺跡」は、弥生時代前期末頃の集落の一部が環濠の可能性のある大溝を伴う状況が明らかになるなど、集落研究にも貴重な資料となっています。

妙願寺(徒歩11分/約870m)

平野区の都市景観資源の発掘を目的とした「わがまち自慢の景観」として奥田邸とその裏の道、旧屋敷小路、式内楯原神社、如願寺、八坂神社と椋の木、喜連環濠地区の 6 つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)など喜連環濠地区から多く登録されており、現代においても喜連環濠地区は歴史的価値の高さを物語っています。

1:妙願寺(徒歩11分/約870m) 2:北口地蔵尊(徒歩11分/約810m) 3:楯原神社(徒歩12分/約900m)

国内随一の綿花生産地として
産業発展を遂げた平野区

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平野区は綿花とともに産業発展を遂げてきました。1704(宝永元)年の大和川の付け替え完了を機に、残された広大な河川敷に綿の木を植えたことで、国内随一の綿花生産地となり、綿業を中心に産業発展を続けてきた歴史があります。平野は江戸時代は繰綿と綿作を代表的産業として、綿の集散地としても栄え、明治時代には綿業の町としてさらに発展した歴史があります。

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1887(明治20)年、町内有志による出資で、平野紡績会社(現ユニチカの前身企業のひとつ)が設立。開業直後の平野駅南側に広がる杭全神社境内と神宮寺僧房跡に建設された近代的な紡績工場により、綿業が加速し、1969年(昭和44年)のニチボー平野工場解体まで平野は綿業の町として確立していました。

1990(平成2)年に開催された「国際花と緑の博覧会」に向けて、平野区を心の触れ合う緑豊かな潤いの町にと、「わたの花」が区の花に選定されました。綿業を中心に栄えた平野は、当時を彷彿とさせる寺社仏閣や古民家と現代の住宅が融合するなど、大阪を代表する希少なエリアとなっています。

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